・・・といっても、勉強しない学生を叱りつけるわけではない。
毎週通っているICU教会の牧師先生から、新入生歓迎礼拝のメッセージを頼まれた。
これまで、大学礼拝で話をしたことは何度かあったが、出席者の多い教会の日曜礼拝でのメッセージは初めてである。今回は、新入生歓迎のメッセージというお題だったため、大学礼拝の時と同じようなのりで話を考えた。
お話は以下の通り。
*****
新たに国際基督教大学に入学された皆さんに心からのお祝いを申し上げたいと思います。おめでとうございます。
本日、皆様の前でお話をする機会を得ましたことを感謝します。
私は経営学担当の教員、Think!(仮名)と申します。普段は経済学、経営学やマーケティングの授業で企業経営について講義しております。
自己紹介をしますと、私は横浜の出身で、幼稚園から小学校中学年くらいまでは家から歩いてすぐの教会に通っていました。仲のよい友達から誘いを受け、お祈りをしにというよりも彼らと遊びに行く感覚で通っていたものです。
そのあとは習い事や塾通いを始めて次第に日曜学校から足が遠のき、次に再び教会に通うようになったのは1997年、27歳の時でした。当時私は、英国ケンブリッジ大学の博士課程に留学しており、カレッジ(寮)の礼拝堂で学期中の夕祷(evensong)と日曜礼拝に出席していました。(今になって考えると、近くに教会やチャペルがないと通わない、かなりの怠け者だということに気づきます。)
そして博士号を取得し、研究員としての任期も終わりに近づいた2003年に洗礼と堅信の式を受けました。当時は大きな決断という意識もなく、それまでの6年ほどのあいだ加わっていたコミュニティにきちんと所属し、祈り、神の教えについて考えようと思ったからでした。そしてこの時の決断が、その7年後に本学に着任するきっかけとなるのですが、もちろん当時はそうなることを知るよしもありません。
普段は幼い子供に付き添って毎週の日曜学校と日曜礼拝に参加しているのですが、今回北中先生から、新入生歓迎礼拝のためのメッセージについて依頼を受け、引き受けました。
皆さんが入学した大学とはどのようなところでしょうか。おそらく入学式やオリエンテーションで、国際基督教大学の沿革やミッションについてお聞きになり、また授業の履修や単位についても詳しく説明を受けたことと思いますが、ここではもう少し大学そのものについて考えてみたいと思います。
まず、そもそも大学に固有の機能・役割とは何でしょうか。大学とは、社会野中で普遍的知識を産み出して蓄積し、伝えてゆく主体の一つです。大学の本質的機能は、普遍的な知識の創出・蓄積(いわゆる研究機能)とそのような知識の伝達(いわゆる教育機能)を同一の場で行うという点にあります。大学において研究機能と教育機能が不可分となっているのは、そのような大学というものの本質に根ざしています。そこでは、研究者と教育者を兼ねる教員と学生とが知識の創出・蓄積・伝達を行っています。
このように研究者が教育もこなしているのが、大学という場所で、そのあり方は研究が主体となる研究所や、教育が前面に出るほかの教育機関とは異なる立ち位置にあります。すでにある知識を教えることだけに限るなら、もしかしたら大学の教員よりも、教えることに特化した高校や予備校、専門学校の先生の方が上手かもしれません。しかし大学で研究者が教えることによって、ほかの教育機関が行うのとは違う教育が可能になります。
大学での教育がいかなるものであるべきかは、多くの思想家たちが述べていますが、ここでは戦前の経済学者河合栄治郎の考えを紹介します。彼は、大学教員のあるべき役割を以下のように述べています。
「大学教師は学問の成果を紹介して、これを機械的に詰め込むのではない。むしろその成果に到達した方法を教えて、未来に無限の成果を生むべき(学生の)創造的能力を養わなければならない。また彼は自己の研究が奉仕する真理に対し、いかに彼が誠実であり真剣であるかによって、学生の真理への畏敬と愛とを喚起しなければならない。さらに彼は言語による表現の能力を持たねばならない。短きに過ぎず冗長に失せずに思うところを的確に、言わんとするところを簡潔に発表しうることは、学者として必要なかろうとも、教師として絶対に必要である。最後にしかし最も大切なことは、彼が自己の専門の全学問における地位と、他の専門学科との関連を、さらに一歩進めては人格における学問の意義と価値とを、学生に対して明白に説かねばならない。」
大学で教える者であればおそらく、これがいかに難しく、しかしやり甲斐のある仕事であるか、よくわかるのではないかと思います。
そしてこれは、大学で学生にどのような学びが求められているかと言うことも示しています。学生は日々の学びを通じて、単に専門の知識を詰め込むのではなく、なぜ、どのようにそのような知識が生まれ、それらの知識が相互にどのようなつながりを持っているのかについて、人類が営々と積み上げてきた知識の体系に触れることになります。これは高校までの、ともすれば目の前の受験を意識した勉強とは、目的も内容も範囲も異なります。学年が進んで専門が絞られてゆくとはいえ、一個の人間が人類がこれまで生み出してきた膨大な知識と本格的に向き合う、まさにその入り口を体験することになるのです。
また専門馬鹿にならず、かつ学問のたこつぼ化も防ぐためには、自分の専門分野だけを学ぶのではなく、自分の専門分野とその周囲の学問領域との関わりについても理解しておくことが必要です。
さらに皆さん個人にとっての学問を、自分の人格の中でどのように位置づけるのかを考えることも必要です。すべての人が研究者になったりするわけではないですから、大学卒業後に自ら学んだことをどのように活かしていくかは、人の数ほど多様です。将来の自分の人生において、大学で鍛えた知的能力とそしてそこで得た知識とどのように活かしつきあっていくのかについても考える、それは皆さんの将来のキャリアを考えることとも関わってくるでしょう。
これからの4年間、皆さんには是非大学にいることによってしか得られない知的な体験を存分に経験ほしいと思います。そして私たち教員は、諸君のそのような学びを全力でサポートしたいと考えています。
さて大学は、真理を追究するための学びを得られる場所です。しかしなぜ大学は、学者になる人ばかりでもないのに真理を探求する姿勢にこだわるのでしょうか? よく「真理が人を自由にする」と言われるように、真理を求めようとする中で、ある種の大切な自由を得ることが出来るからです。
キリスト教では「真理が人を自由にする」とは、以下の聖書箇所でよく知られています。ヨハネ8:32の「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう('and ye shall know the truth, and the truth shall make you free.')」です。
もう少し敷衍しましょう。その部分はこのように語られています。
「8-31もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8-32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
8-33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
8-34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
8-35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
8-36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。
(8-31 Jesus therefore said to those Jews that had believed him, If ye abide in my word, then are ye truly my disciples;
8-32 and ye shall know the truth, and the truth shall make you free.
8-33 They answered unto him, We are Abraham’s seed, and have never yet been in bondage to any man: how sayest thou, Ye shall be made free?
8-34 Jesus answered them, Verily, verily, I say unto you, Every one that committeth sin is the bondservant of sin.
8-35 And the bondservant abideth not in the house for ever: the son abideth for ever.
8-36 If therefore the Son shall make you free, ye shall be free indeed.)
このように聖書では、主のみ言葉そして御心を理解し信じる先に真理を得、自らの犯した罪からの自由を得ることが出来る、と説くのです。
一方学問では、真理と自由はどのようにして得られるでしょうか。学問の世界では、既存の知識や常識を信じるのではなく、むしろ疑うことによって、真理をそして自由を得ることが出来ると考えます。実は大学というところは、大学の外、つまり一般社会とは少々違う考え方をする場所です。世間で生きていくために大事なのは常識というもので、それは、大多数の人々の考え方や行動パターンからはずれない知識ということです。ところが、大学は常識を常に鵜呑みにするわけではありません。大学という学問の世界ではむしろ常識さえ疑い、真理を追い求める場所です。常識に縛られるのではなく、本当はどうなのか、それを自分で考えていくことが出来る場所なのです。そして、そのような思考方法を学ぶことで、人は自由に考えるということを身につけるのでしょう。本学でも重視されるcritical thinkingは、まさに自由な思考を身につけるための方法なのです。大学は、既存の知識を学びつつ、しかも疑問を持てばそれにさえ挑戦することのできる、数少ない場所の一つです。そのような場所に4年間身を置くことの意味を、是非一度考えてみてください。そして、大学での新たな学びが、皆さんに自由な思考をもたらしてくれることを祈っています。
聖書について学ぶと、そこでは人生において人々の直面する多くの困難について語られます。そしてそのような困難に対してどのように考えるかも、聖書は多くを教えてくれます。今回読んでいただいた聖書箇所は、そのような場所の一つです。5章第1節から5節までを読みます。
「5-1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
5-2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
5-3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
5-4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5-5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
(Therefore, since we have been justified through faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ,
2 through whom we have gained access by faith into this grace in which we now stand. And we[b] boast in the hope of the glory of God.
3 Not only so, but we[c] also glory in our sufferings, because we know that suffering produces perseverance;
4 perseverance, character; and character, hope.
5 And hope does not put us to shame, because God’s love has been poured out into our hearts through the Holy Spirit, who has been given to us.(Romans 5:1-5))」
そして特に本日読んでいただいた聖書箇所は、信仰のみならず学問についても大変含蓄のある言葉だと思います。
学問は、成果としての知的能力や研究成果を得るまでに、相応の時間をかけなければなりません。読み、考え、書き、発信するといったことを地道に繰り返すプロセスでもあり、そこには知的関心を満たし自らを育てる、という喜びとともに困難も多くあります。そして「学問に王道なし(ここでいう王道はショートカット、近道のことです)」という言葉が示すように、そのような困難に対して、正直に向き合うことが往々にして必要です。これは楽なことではありません。しかしそのような経験は、決して無駄になることはありません。本日の聖書箇所にあるように、困難は忍耐を我々にもたらし、忍耐は練達(英語ではcharacter)を、そしてそのような忍耐と練達は、困難を乗り越えることを可能にし、未来への希望をもたらしてくれるからです。
「学問をする上で(あるいは勉強する上で)何が大切か」と問われた場合は、私はいつも「好奇心(curiosity)を持つこと」「集中すること」そして「成果が出始めるまでは我慢して続けてみること」と話しています。知的関心がなければ、知的活動は始まりませんし、何らかの成果を出すためにはある期間集中して取り組むことが必要です。そして、やはり成果が出始めるまでは地道に続けることです。成果が出始めていることがわかれば、やる気も出てきます。そして人間は明るい展望を持って先が見通せるようになると、あとはとても楽になるものです。長い人生に必要な練達や人格を築き、そしてそうすることによって希望を得ることが出来ると信じて、困難なときも耐えて前に進みましょう。
最後に国際基督教大学での新生活を始めた皆さんに、是非心に止めておいて欲しいことが2つあります。第一は、学問をするにあたって、冷静な思考のみならず、温かい心を持ってほしいということです。
私の尊敬する経済学者の一人で、近代経済学の祖アルフレッド・マーシャル(英国 1842-1924)は、ロンドンの貧民街を歩いてその悲惨な状況に触れ、そのような貧困にいる人々のためにこそ、経済学を深めようと決意したと伝えられます。彼は後に英国ケンブリッジ大学の政治経済学教授に就任しますが、その際の就任演説で「冷静な頭脳と温かい心を持ち、周囲の社会的苦難と格闘するためにすすんで持てる最良の力を傾けようとする・・・、・・・そのような人材の数が増えるよう最善を尽くしたい」と述べました。そしてケンブリッジの学生たちをロンドンの貧民街へ連れて行き、「経済学を学ぶには、理論的に物事を解明する冷静な頭脳を必要とする一方、階級社会の底辺に位置する人々の生活を何とかしたいという温かい心が必要だ」と説いています。
知識は冷静な思考によって形作られていきますが、国際基督教大学に入学された皆さんには、是非温かい心を持って学び、そして温かい心をもって社会に巣立っていってほしいと思います。
第二は、教養学部に来られた皆さんは、真理(truth)とともにlifeについて学び、そしてそれを大切にして欲しいということです。lifeは、命、生き方、生活、人生など様々に訳されます。是非lifeを大切にしましょう。命の尊さ・大切さを感じ、自分や周りの人々の生き方を尊重し、一日一日の生活を充実したものにし、そして実り豊かな人生を送るために自分を大切に育てるように、本学での日々を過ごして欲しいと思います。
最後にもう一つの聖書箇所を皆様に捧げて、みなさんが真理を求める心と、自由な意志と考えをもって力強く歩まれるよう願っています。
ヨシュア記第1章第9節『心を強くし、かつ勇め。汝の行くところすべてにて汝の神、主の共にいませば、恐るるなかれ、おののくなかれ。』
(Joshua 1:9 Be strong and courageous. Do not be afraid; do not be discouraged, for the Lord your God will be with you wherever you go.)
そして、ともにいてくださる主のみ恵みが皆様にありますようお祈りします。
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メッセージはシンプルでわかりやすかったためか、一般の信者からも好評であった。
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