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2008年5月 9日 (金)

二部課程の大切さ

私の勤務する学部は、昼間に仕事を持つ人々を対象とした二部の学士課程(いわゆる夜間コース)を有している。以前は大阪府内でもいくつもあった二部過程も、私の専攻する領域ではおそらく本学部くらいになってしまった。しかも、最近その存続が話題にのぼるようになっている。

存続が議論されるのは、昼間仕事をしている人を対象とした学士課程を持つことの必要性が疑問視されているからだ。現在の本学部二部学生の多くは、昼間フルタイムの仕事を持っているわけではない。彼らの多くは、本来は一部課程に入学したかったのだが、センター試験の成績など仕事上の理由以外で二部課程に出願してくる学生である。二部でも、昼間フルタイムの仕事をしている人の割合は実はあまり多くないのだ。

それなら彼らの希望を受け入れて、一部の学生の定員を増やし、ついでに二部をなくせばよい。二部課程を持つことによる財政的な負担は大きく(一部定員は250名、二部定員は40名ほどで、彼らのために夜間に教員・職員をはりつけるコストは非常に大きい)、財政事情が厳しい大学にとっては、当然二部廃止を求めるインセンティブは高くなる(ただし、ここで割を食うのは少数の社会人学生である)。

しかし私はここで、二部課程が存在することの重要性をいくつか指摘しておきたい。二部を廃止すると、大学にとって社会に有為な人材を育成する能力が大幅に落ち込んでしまうのである。

二部で教えていて、あることに気づいたのがその根拠となっている。それは優秀な一部の学生と優秀な二部の学生の差が、実は非常に小さいということだ。二部の優秀な学生には、二つのタイプがある。ひとつは社会人学生で知的好奇心が強く、二部に入学するタイプ。モティベーションが高く、時間を上手に使うことができ、しかも社会人としての経験もいかせるため、非常に優秀だ(二部を廃止すると、少数派になったとはいえ彼らの学ぶ場がなくなってしまう。これは由々しき問題である。)。もうひとつのタイプは、センター試験などの結果一部ではなく二部に出願して入学したが、在学中にめきめき力を伸ばして二部の上位に入るようになった学生。これら二つのタイプは、「勝利の方程式」を学んだ学生であるという点で共通している。

(私は人間が大きく成長できるか否かは、自分にとっての「勝利の方程式(あるいは成功の方程式)」を学べたかどうかによって決まると考えている。「勝利(成功)の方程式」の詳細については、おいおい述べる。)

とくに二部の非社会人学生は、センター試験その他の成績で一部合格の可能性が低かったために二部に出願したというパターンが多い。その意味で「偏差値的には」二部の学生は一部の学生よりも下というのが世間的な認識である。しかし、二部の学生のトップクラス(彼らは社会人、非社会人を問わずモティベーションが高く努力をする)は、卒業時には一部課程の下位の学生どころかトップクラスにも劣らないほど優秀なのだ。就職先にかんしても一部のトップクラスの学生と比較しても遜色はない。なぜ入学時に大きな差があった一部のトップと二部のトップに、卒業時にはそれほど差はないのか? 

それは大学入試まで成績では下位に沈んでいた学生たちが、在学中に二部課程でトップクラスに入るよう努力する機会を持つことによって、知識を吸収し活用するための方法論を学ぶからであり、その結果としてよい成果を得るための「勝利の方程式」と自信とを身につけているためだ。これは一生役に立つ、まさに宝なのである。それに比べれば、成績の「優」の数は瑣末な結果に過ぎない(もちろんそれはそれで賞賛されるべきとても大切な成果だ)。

あくまでも重要なのは、努力してトップクラスまで上り詰めるプロセスのなかで豊かに得られる経験と能力と自信なのである。あるいは「成功の味をしめる」ことのすごさといってもよい。これは、平均とか教育効率では語れないものだ。トップクラスに入る機会が存在すること、これは人間の成長にとって、そして教育にとって非常に重要なことなのである。

さて二部課程を持つかどうかという話に戻すと、二部を廃止すると、たとえ一部の定員を増やしても、トップクラスに入ることによって経験・能力・自信を得る人数が半分になってしまうのだ。ゆえに優秀な人材を生み出す学部の能力も半減することになる。これが、コストを削減した場合の代償である。私はこのように、成長する機会を失うことは学生にとっても、大学にとっても、社会にとっても非常に大きな損失になると考えている。

人は努力してある高みまで上り詰める、というプロセスのなかで大きく成長する。しかしトップクラスのポジションは限られている。「成功の味をしめる」ことのできる人の数は、そんなに多くはないのだ。ならば全体をひとつにせず、社会的に支持を得られる正当で合理的な理由によっていくつかに分けてトップクラスのポジションを増やすことができれば、成長する人の数は大きく増える。やる気のある社会人学生や、入学時にまだその実力を発揮し切れていないが伸び盛りの学生が切磋琢磨する二部課程トップクラスのポジションは、まさにそのような成長の場を提供しているのである。

残念ながら、このロジックはまだ日の目を見ていない。下っ端の私は、二部課程をどうするかに関しては上層部の決定に従うのみである。しかし二部課程に限らず、成長の場の確保は非常に重要なことなのだ。読者諸賢は、どう思われるであろうか。

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私的人間成長論」カテゴリの記事

コメント

おっしゃる通り、人間にとって成功体験は本当に大切です。成功体験によって得られる自信は、人が社会で働き、家庭を持ち、育児をするといった全過程で、その人を支え続けます。そのような人が生涯で生み出す社会的利益は測り知れません。

二部課程が廃止されることになれば、学生の皆さんが成功体験を得る場が1つ減ってしまうんですね。コストを考えると仕方のないこととはいえ、残念な潮流です。

教育機関である大学にはぜひ社会的・長期的視野に立ってほしいものです。日本全国の大学が厳しい経営状態にあるのでしょうが、コスト削減のあまり二部課程廃止をはじめとした公共福祉を損なう潮流が確立してしまったら、まさに市場の失敗、といった感じですね。(「失敗」は言いすぎかしら・・・)

投稿: Yuko | 2008年5月11日 (日) 01時04分

コメント、ありがとうございます。成功体験についてのお考え、まったくおっしゃるとおりだと思います。

成功体験を得るのを支援するには、手間ひまもお金もかかります。リソースが限られていることはよくわかっているので、浪費を促すつもりはありません。ただコスト削減は大切なことではありますが、コストを減らすこと自身が、教育・研究上の新しい成果を生み出すわけではないんですよね。

何が必要なことかを見極めて、かけるべきところにはしっかりお金と労力をかけることが、結局よい成果につながるのではないかと思います。そこで、何が必要かという優先順位を決める際の見識が重要になってくるのでしょうね。

投稿: Think! | 2008年5月12日 (月) 02時51分

稲葉先生、いつもブログ拝見させて頂いてます。もっと早くにコメントしようと思っていたのですが、ついつい忙しくて書けませんでした。

自分も二部OBであり、二部存続について一言述べたいと思います。
近年では、特に二部廃止や昼夜開講制などの流れになっていますが、本来の勤労学生の学びの場であったり、社会人が再度大学で学び直す場として、二部の存在は非常に大きいです。自分も、企業や地方公共団体で働きながら二部を卒業し、更に研究を深めたいと考え大学院でお世話になっています(こう書くと大体誰か特定されますが・・・)。

確かに、大学の独法化に伴って、諸事倹約で大学運営についても「効率化」が求められる時代になり、同じ授業内容で学費が一部の半分という二部は経営上の「お荷物」と見られがちなのも事実です。
しかし、自分が見てきた二部商学部は、それこそ向学心・向上心の強い社会人や、学力的には遜色のない現役学生も沢山いました。授業態度も概して真面目だったと思います。
経営効率化の名の下に廃止するのは簡単ですが、大学にとって失うものはあまりにも大き過ぎます。「覆水盆に帰らず」ではないですが再度同じものを作り直すには更に時間とコストと労力が掛かります。その結果が、一時的に財務諸表の健全化ではあまりにもお粗末ですし、「市立大学」と冠し文字通り日本の公立大学の牽引役であった大阪市立大学の存在意義が問われます。
二部学生の中には、一部に行きたくても家庭の経済的な事情で二部に進学した学生もいるでしょうし、社会人で自分の時間を削って大学で学び直している人もいるでしょう。そのような人から、学ぶ機会を取り上げるのは、私立大学ならいざ知らず国公立大学が採るべき選択ではないと考えます。

少し、自分の出身である大阪市立大学二部の事で熱くなりましたが、「社会と大学」とのあり方を考える一つの契機として二部存廃問題について私見を述べさせて頂きました。

あと、稲葉先生の『履中亭雑記帳』はずっとチェックしてたのですが、なかなかコメントを出す機会が無かったので、自分の問題とも絡んでいたため、今回はここでコメントを載せました。今後も、『履中亭雑記帳』の1ファンとしてチェックさせて頂きます。

投稿: Tommy | 2008年8月 2日 (土) 20時00分

コメント、ありがとうございます。またいつも雑記帳をお読みいただき、ありがとうございます。

二部課程も含め大学(とりわけ国公立大学)の役割の一つに、教育を通じた社会成員の流動性の確保があります。これは自らを成長させるべく知的な鍛練を積む人々に、比較的安価に質の高い教育の機会を提供することで、社会的な階層やバックグランドなどにかかわらず、本人が払ってきた努力量次第で卒業後にいくらでもチャンスを得ることが出来るのが公教育の良さだと思います。

最近は国公立大学の学費も上昇していますが、それでもまずます安価に機会を提供することで、社会にとって必要な人材が育成され、そして各人にとっては努力することで飛躍のチャンスが生まれています。よい循環を生み出している事を説明し実際によい結果を示すことが出来れば、二部課程の存続も含め、そのような成長の場を維持することには社会的に大きな価値があると考える人が増えるのではないかと思います。

投稿: Think! | 2008年8月 4日 (月) 19時11分

稲葉君
高校時代ご一緒したものです。
2部についての意見、同じく思っております。

早稲田大学の社会学部も我々のころは夕方学部などといわれていましたがおっしゃるような理由で変わっているのですね。

社会人と一緒に授業を取らせるのは学生にとっても刺激になるはずです。特にケーススタディを経済学、経営学、政策学でやる場合は社会経験のあるなしが響きますね。

自分が修士をやったときは社会人を2,3年しかやらない状況で行ったので苦労しました。

投稿: Mummy | 2010年9月21日 (火) 11時56分

お久しぶりです(って、Mummyさんが誰か分かっていないのですが ごめんなさい 汗) &コメント、ありがとうございます。

「教える」のも「学ぶ」のもそのプロセスは本当に多様で正解はなく、また手間暇もかかります。しかし意外性があり、いつも何かしらの新しい発見があり、成長をみるおもしろさもあって、教え続けているのかもしれません。

拙いブログですが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

投稿: Think! | 2010年9月22日 (水) 16時06分

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