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2010年10月 5日 (火)

お説教をする

・・・といっても、勉強しない学生を叱りつけるわけではない。

ICUはキリスト教精神に基づく教育を行っており、学期中は週に一度礼拝堂でのチャペル・アワーがある(自由参加で強制ではない)。ここでは賛美歌を歌い、聖書を読み、祈り、しかる後に学生や教員、あるいはゲストが15分ほどのメッセージを伝える、つまりお説教をする。

宗務部のリクエストで、今回お説教をすることになった。不惑にして初めてのお説教、不信心者には過ぎた荷だ。が、そのような機会が回ってくるのも十年に一度とのことなので、引き受けた。

まず、ユダに裏切られてエルサレムの長老達に捕らえられる直前のイエスの祈りの場面の福音書の朗読をお願いした。イエスは、まもなく自らが十字架にかけられる運命を知りつつ,神に祈っている。

『イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。

いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。

そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。

(ルカによる福音書 22章39〜44節)』

そのあと、次のようなメッセージを伝えた。

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「没頭すること」

本日、皆様の前でお話をする機会を得ましたことを感謝します。

私は経営学担当の教員、Think!(仮名)と申します。普段は経済学、経営学やマーケティングの授業で企業経営について講義しております。

自己紹介をしますと、私は横浜の出身で、幼稚園から小学校中学年くらいまでは家から歩いてすぐの教会に通っていました。仲のよい友達から誘いを受け、お祈りをしにというよりも彼らと遊びに行く感覚で通っていたものです。

そのあとは習い事や塾通いを始めて次第に日曜学校から足が遠のき、次に再び教会に通うようになったのは1997年、27歳の時でした。当時私は、英国ケンブリッジ大学の博士課程に留学しており、カレッジ(寮)の礼拝堂で学期中の夕祷(evensong)と日曜礼拝に出席していました。(今になって考えると、近くに教会やチャペルがないと通わない、かなりの怠け者だということに気づきます。)

そして博士号を取得し、研究員としての任期も終わりに近づいた2003年に洗礼と堅信の式を受けました。当時は大きな決断という意識もなく、それまでの6年ほどのあいだ加わっていたコミュニティにきちんと所属し、祈り、神の教えについて考えようと思ったからでした。そしてこの時の決断が、その7年後に本学に着任するきっかけとなるのですが、もちろん当時はそうなることを知るよしもありません。

さて私は旅が好きで、留学中に英国を始め欧州各国の街を旅してきました。北欧から地中海まで、旅先の街で必ず立ち寄るのは地元の教会と美術館です。モザイクに彩られたビザンティン様式、簡素な石彫りのノルマン様式、アラビア建築の影響を受けた建物、ゴシック様式からバロック様式まで、そして小さな村の教会の簡素な内装から、豊かな商業都市にある豪奢な教会の内陣まで様々なものを拝観しました。いずれも、その土地土地の街の人々や工事に携わった職人たちの思いが伝わってきます。

また美術館の絵画もよく見てまわりました。中世から1800年代までの絵画の作品のモティーフで圧倒的に多いのは、やはり旧約聖書や福音書、あるいは聖者たちのおこないの様々な場面です。(マリア、ヨゼフ、洗礼者ヨハネとキリストの)聖家族のポートレート、キリストの教えの旅の道中、キリストがみなに語りかける場面、様々な奇跡を起こす場面、そして受難と復活・・・。

そんな数多くの絵画の中で、弟子達とともにキリストに従う無名の信者たちの姿を見ることができます。絵の注釈では、彼ら信者はdevoteesと呼ばれています。devoteeの動詞形devoteは「帰依する」という意味ですが、より広く「没頭する」という意味も持っています。ある教えに没頭することが、すなわち帰依するということになるのでしょう。

さて皆さんはこれまで、どの様なことに没頭してこられたでしょうか。私は、ここで「没頭する」ことについて考えてみたいと思います。今思い返すと、英国留学中の博士論文執筆は、私が真に没頭するということを体験した出来事であったと思いますので、そのことについて申し述べたいと思います。ただし、「私は研究が好きで、好きな研究に熱中して・・・」という展開ではありません。確かに最後の方では熱中していたのですが、そうなるまではいろいろと紆余曲折がありました。

英国の大学の博士課程の研究では、1年目に既存の文献を大量に読み込んでまだ研究されていないテーマを見つけ出し、2年目で様々な調査を行ってデータを集めます。そして3年目に、新たに得られた知見に関して論文を執筆することになります。

この博士論文では、まだ誰も見つけていない新たなことを見い出すという「知識への貢献(contribution to knowledge)」が求められます。小さなことでよいのですが、自分で新たなものを探し出さなければなりません。それは、修士課程までの習い、覚え、考えるということとはまったく違う、研究者として初めての知的探求のプロセスです。

多くの博士候補生がこのプロセスの中で、思い悩むことになります。自分は本当に必要なデータを集められているのだろうか、それらから意味のある発見があっただろうか、生み出しつつある理論の構成に矛盾はないだろうか、気づかずに他の人がすでに発表したことを後追いする、いわゆる「車輪の再発明(reinvention of the wheel)」をしてしまっていないだろうか、そもそもこんな研究に意味があるのだろうか・・・。

悩みだすと研究はストップしてしまいますが、しかし時間は容赦なく過ぎていきます。奨学金が尽きる前に、なんとか論文は完成させなければなりません。見込み発車で、確たるルートも結論も見えないまま論文を書き始めなければならないのは、地図もなく真っ暗な道を進むようなもので大変つらいものです。

私も、ようやく書き始めました。経営学の博士論文の長さは、標準的なものでおおむね300ページ前後、もちろんすべて英語で書かなければなりません。しかし初日に書くことができたのは、わずか3行ほど。書き上げるのに何年かかるのだろう・・・、と絶望的な気分になったのを、今でも鮮烈に覚えています。

とにかくそれからは、研究室にこもりきりです。朝カレッジ(寮)で朝食をとり、8時に研究室に入ります。午前中の執筆、そしてカレッジに戻り昼食をとり、午後の執筆。3時にお茶を飲み、午後6時まで執筆。カレッジのジムに行ってエクササイズで一汗流してシャワーを浴び、夕食をとり、そのあと再び研究室に戻って午前1時まで執筆。執筆を終えて自室に戻っても、少し前まで考え事をしていたせいで頭が冴えていてすぐには寝られません。下手をするといつまでも寝られないので、安ワインを飲んでリラックスして頭を落ち着け、ようやく午前3時前に寝ます。翌日も、その翌日もこの繰り返しでした。

こんな生活が1年ほど続きます。まったく進まないときもあれば、少しは進んだかなと思う日もあります。最初は1日1ページも書けなかった文章も、2ページ書けるようになり、3ページ書けるようになり、ペースも上がっていきました。「何とかしなくては」から、「いや、なんとかなりそうだ」と思えるようになり、短い睡眠時間も、研究室や図書館で長時間机にしがみつくことも、日々の単調な生活も、つらいこととも思わなくなり、初めのうちはできることなら向き合いたくもなかった自分の研究が、だんだん愛おしく思えるようにさえなりました。そのころ、私は本当に研究に没頭していたのだと思います。

こんな日が続いて1年が過ぎますと、論文は完成していました。最後の方は、あまりに熱中していたため、ふと気づいたら目の前に完成した論文がおいてある、そんな感じでした。

これは私の個人的な考えですが、何かに没頭できるということは、ただ単になすべきことが分かっていて、それを無心にこなすということは少し違うように思えます。また与えられた仕事を一生懸命にこなすというのとも、少し違います。

つまり、没頭するためには、次の3つの要素があるような気がするのです。

まずそのことに取り組み始めた段階で、「これでよいのだろうか」「本当に大丈夫だろうか」といった、よい答えが見つからないことへの思い悩みや未知への怖れを経験することになります。そして、それらを乗り越える意志と決断が必要になります。このような意志と決断がなければ、決して前に進むことができません。

次に、意を決したら、やり抜く覚悟で取り組まなければなりません。最初は思うように進まず、このままでよいのかという疑問も持つし、あきらめたくもなることもあるでしょう。しかも結果がどうなるかは、最後まで分かりません。もしかしたら徒労に終わるかもしれませんが、それでもやはり進むしかないのです。

そして自分の取り組んでいる課題にたいして、「惚れる」気持ちが必要になります(私は大変俗な人間で、愛することをよく「惚れる」という言い方をします)。惚れるという、感情的な移入ですね。これらの3つの要素が加わって、初めて没頭することができるのではないかと思います。

そんなことを考える私が福音書の中で特に心に残るのは、オリーブ山での主イエスの祈りの場面です。主イエスはわが身を犠牲にして十字架にかかることで、人を救おうとしています。そして迫り来るその運命について考え悩み、血の汗の滴を流して神に祈ります。それは、どんな思いであったことでしょう。

やがて祈りを終えたイエスは、意を決して立ち上がります。直後に捕らえられ、エルサレムへと送られ、裁判で辱めと責め苦を受け、そして十字架にかかります。それは想像を絶する、つらく苦しい時間です。しかしこの時、主イエスは愛する人のために殉じ、世界を救うことに没頭していたのだと思います。だから私は、その起点となったオリーブ山での主イエスの祈りと決意に心打たれるのです。これが、本日の聖書箇所について私が思うことです。

特に若い学生諸君に伝えたいと思います。人生の中で、本当に没頭することができる機会は、多くはありません(私はいま与えられた仕事を日々一生懸命こなしています。が、真に没頭しているかと聞かれれば、必ずしもそうではありません)。まして人は将来を予測できず、どこから手をつけてよいか分からないことも多く、自らの進む方向に疑いを持つこともあり、しかもどれだけ努力をしても思い通りの結果を得られるとは限りません。

それでも是非、一度でも没頭するという経験をしてみてください。始める前から怖れてはなりません。悩みに向き合い、決断し、あるときは我慢して進み、そして難問にさえ惚れること。そのような経験は、きっと諸君を成長させ、その先の人生を生きる勇気の源となるでしょう。このことを本日の私のメッセージとしたいと思います。

祈りましょう。

在天の主よ。私たちは、時に未知のことを怖れ、歩む先の長さや苦しさに絶望し、その歩みを止めてしまいます。どうか私たちをお導きください。そして、歩み続ける勇気を得ようとする私たちとともにいてください。

社会に出ることを怖れる学生、まだ就職先が決まらずに焦る学生、結果を出せず選んだ進路に対してそれがよかったのか疑問を持つ学生、また希望とは異なる仕事や職種あるいは内定先に就職すべきなのかどうか悩む学生がおります。彼らがよき決心に至るよう、そしてゆっくりでも着実に歩めるようお守りください。

主イエスの御名において。アメン。

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ブログのネタ不足の中、一生懸命考えて一回話して終わりではもったいないので、エントリーに使うことにした。長くなったが赦されたい。

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コメント

とても良いお話を聞かせていただきました。有り難うございました!

投稿: ひらおか | 2011年1月10日 (月) 01時13分

コメント、ありがとうございます。そう言っていただけるとうれしいです。

初めてなので、こういう話やお祈りを考え、伝えることの難しさを、たっぷり味わいました。私は十年に一度ですが、これを毎週やっている方々には、敬意を表します。

今後ともよろしくお願いします。

投稿: Think! | 2011年1月10日 (月) 18時53分

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